ロックスターの横顔 vol.13

ザ・ビートルズ

私の人生の分かれ目は、ビートルズと、この『Music Life』を知ったこと MUSIC LIFE CLUB Presents

ロックスターの横顔 vol.13 ザ・ビートルズ

私の人生の分かれ目は、ビートルズと、この『Music Life』を知ったこと

2021.December


1966年6月29日から、7月3日まで延べ5日間に動員された警察官8,400人、補導された少年、少女約6,500人、PTAや教育委員会が来日に大反対し、学校によってはコンサートに行ったら退学、停学という厳しい措置も……。コンサートの主催者読売新聞社主、日本武道館会長だった正力松太郎氏は神聖な日本武道館を、わけの分からない不良どものコンサートなどに使わせるなと大反対。いやいや、英国女王から勲章をもらっているから大丈夫と招聘元が説得。有名な政治評論家は「ペートルズだか何だか知らんが、あんなものは音楽じゃない!」と発言。右翼団体が武道館周辺で街宣車を乗り回し「日本から出ていけー!」とマイクで絶叫。

 

笑ってしまうが、これ全部、ビートルズ来日時の本当の話。大人でも子供でもない「若者」という概念が生まれるのは1968~1970年の大学紛争あたりからだろう。だから世の大人は一部の急進的な若者達を恐れ、警戒した。ビートルズは、その急先鋒で日本の子供達に悪い影響を及ぼすに違いないと思われていた。

 

で、当時、私は中学生で、4歳年上のプレスリー・ファンの従妹が読んでいた音楽雑誌『Music Life』を自分でも買って読み始めた頃だ。私の人生の分かれ目は、ビートルズと、この『Music Life』を知ったことで道筋が決まった。だからビートルズの日本公演には、何がなんでも行かなければならなかった。コンサートは「ロックンロール・ミュージック」で始まり「アイム・ダウン」で終了。友人から借りた登山用の大型双眼鏡のなかのポールの笑顔を見ながら夢のような30分間が過ぎた。そう、ビートルズが実際に演奏したのは、たった30分間だったのだ。



上の2枚は公演当日、武道館周辺の物々しい警備と大混雑の様子。下は入場券の半券と、開演前の客席。始まっても立ち上がることを禁じられていた


「日本に行った時のことは、良く覚えているよ。僕ら、いつも警備員に囲まれて自由に行動できなかった。ホテルに缶詰め状態でストレスが溜まったね」
‘91年、エリック・クラプトンとのジョイント公演でビートルズの来日以来、実に25年ぶりに日本に来たジョージ・ハリスンにインタビューしたときの言葉だ。もっとも警備員の目を盗んでジョンとポールはホテルを脱出することに成功している。ジョンは骨董品屋に、ポールは皇居周辺に、それぞれ短時間だが出かけて束の間の散策を楽しんでいる。週刊誌がスクープした皇居を背景にしたポールの写真をキャーキャー言いながら見た覚えがある。 

とにかくビートルズの成長や変化の早さに追い付こうとファンも必死だった。1966年発売のビートルズの7枚目のアルバム『リボルバー』のサイケデリックな感覚は、次作『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』という不朽の名作へと受け継がれる。その頃、新興楽譜出版社(現シンコー・ミュージック)に入社し翌年、念願の『ミュージック・ライフ』編集部に配属されたばかりの私は、レコード会社が持って来た出来立てホヤホヤのビートルズの新作『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を編集部の隣にあった「試聴室」でフルボリューム再生した瞬間の衝撃を今でも、はっきり憶えている。

ベンチャーズもビーチ・ボーイズも好きだったけれど、その後、’60年代後期から‘70年代初期にジャニス・ジョプリン、ザ・ドアーズ、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ヤードバーズ、レッド・ツェッペリン等々を聴くうちに私は、いっぱしの小生意気な編集者に変貌していった。その間、ビートルズは『ホワイト・アルバム』(’68)、『アビイ・ロード』(’69)、『レット・イット・ビー』(’70)と名作をボコボコ発売し、やがて解散。『アビイ・ロード』のB面(LP盤の裏面ね)を何回聴いたことか。

さて、あれほど好きだったビートルズのメンバーをビートルズとして取材する機会はなかったが、バンド解散後に4人とは別個に取材することができた。ポールは’70年代のウィングス時代にロンドンで、ジョージとは前記の通り’91年にロンドンでエリック・クラプトンとの来日公演の直前に、リンゴは’90年代にオールスター・バンドの来日公演にあわせて(残念ながら電話インタビューだったが)、そしてジョンは’75年に息子ショーンが誕生してから5年間、音楽活動を休止。その間、家族で日本の長野県、軽井沢を’76年から’79年まで毎年訪れ、’79年には東京で記者を集めて会見を開いている。ジョン・レノンに話が聞ける機会なんて滅多にない。ところが勇んで出かけた私が見たのは、なんだか元気がないジョンの姿だった。並みいる記者から何を聞かれても応えるのは、同席していたヨーコさん。思い切って「音楽活動を再開するのは、いつ?」と聞いたら「そうだな、近々……」と応えてくれた。

実際、ジョンは’80年に待望の音楽活動を再開し、11月にアルバム『ダブル・ファンタジー』を発売。そのわずか1ヵ月後の12月8日に暴漢に襲われ命を落とした。「ザ・ビートルズ」……やっぱり取材したかったなァ。


1980年12月8日、ジョン・レノンはファンの凶弾に倒れる。年内発売の号には間に合わず、『ミュージック・ライフ』が速報として報じたのは翌年1月発売の1981年2月号。さらに翌3月号ではヨーコとの着物でのツーショットを表紙に据え、東郷編集長はカヴァー・ストーリーとともに追悼を捧げた


(東郷かおる子)


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東郷 かおる子 Kaoruko TŌGŌ 音楽専門誌「ミュージック・ライフ」元編集長。
神奈川県横浜市出身。星加ルミ子氏に憧れ、高校卒業後、(株)新興楽譜出版社(現・シンコーミュージック・エンタテイメント)に入社。

1979年に編集長に就任。1990年に退社。現在はフリーランスの音楽ライターとして活動。近著に「クイーンと過ごした輝ける日々」(シンコー・ミュージック刊)。



東郷かおる子さんが編集長だった『ミュージック・ライフ』は『MUSIC LIFE CLUB』と姿を変え、クイーンを中心とした往年の洋楽アーティスト/グループのニュースや情報をお伝えするサイトとして、シンコー・ミュージックが完全に無料のサービスとして運営中。


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